「現代社会」タグアーカイブ

“ゆとり世代”の性格・価値観・仕事の姿勢は『ゆとり教育』だけで生まれたわけではないだろう

『団塊・シラケ・新人類・団塊ジュニア・ロスジェネ・ゆとり・さとり・つくし・脱ゆとり』など、どの世代に属していても個人差の方が大きいというのはあるが、『学力・忍耐・同調』があっても人生を生きるというのは基本的に楽はできず大変なものである。

否定されるゆとり世代「勝手に作ったんだから責任とって」

ゆとり世代というのは、1980年代の学習指導要領改訂後の教育を受けた『1987年4月から1996年(か2004年)3月の生まれの人』を指すようだ。『教科書が薄い・学習内容減少・休みが多い』などが人格・仕事・人間関係に与える影響もあるが、日本経済がバブル崩壊後の1990年代から長期低迷・斜陽期に入ったのもある。

ゆとり世代だけでなく他の世代も学校教育は人格形成要因の一つだが、自らを取り巻く『時代・経済・環境・情報・道具の影響』は軽視できない。1995年のWin95ブーム以降のネット社会発展やスマホなど『勉強・学習の目的意識(詰め込み重視)』の変更を促進したし、現代で有用な知性・能力が多元化している。

続きを読む “ゆとり世代”の性格・価値観・仕事の姿勢は『ゆとり教育』だけで生まれたわけではないだろう

“学歴”を得ることに価値はあるか?:職業・所得・教養・文化と学歴との相関

学歴をお金に換算する意味での経済価値はかつてより低下したが、大卒の平均給与は高卒・中卒よりは常に高い。中卒でも実業家で成功、一流大卒でも無職など個人差はあるが、平均では学歴による所得・文化・価値・人脈の差はかなり出てくる。

学歴は大切? 大切じゃない?

学歴による差は、大卒が中卒・高卒より優れているという意味では必ずしもない。結局、生まれ育ちや興味関心、生き方、好む話題などによって、自分に合った仲間関係や文化圏というものがでてくるという話だろう。『学歴は無意味・高学歴者は無能』と言われるケースも、ガテン系・飲食系・飛び込み営業などに近いような『知識・教養の生かせない職場や関係』でわだかまっていたりする。

学歴の優位やメリットとしては、医師や法曹、薬剤師、教員などをはじめ『特定学部の大卒者でないと取れない資格・就けない職種』というものがあるという事だろう。確かに該当学部の大卒者でなくても有資格者と同等の知識・技術を独学や実地で身につけ、職務をこなせる人もいるかもしれないが無資格医等は違法行為である。

学歴というか学問・教養のメリットでありデメリットでもあるのは、社会や政治経済等の仕組みを理論的な知識やモデルを通して把握できることで、学問・教養がなければ『難しい事はよく分からない・真面目な話は面白くない・仕組みの中に組み込まれるだけ』のスタンス(余計な事に悩まず動けるメリットでもある)になりやすい。

続きを読む “学歴”を得ることに価値はあるか?:職業・所得・教養・文化と学歴との相関

現代の日本は意地悪化しているのか?『高所得の満足していないオジサン』による炎上:貨幣経済と評価経済

現代には『貨幣経済(お金を稼ぐ)』と『評価経済(人から好かれる)』の二つの側面があり、高収入の中高年男性は前者で優位だが後者で不利になりやすく、地位・経済力と主観的満足がズレやすい。

意地悪ニッポン “炎上”主犯は「高収入だけど満たされないオジサン」

『昔の日本』が『今の日本』より倫理・治安・マナーが良かったわけではないが『相互扶助・存在認知の地域コミュニティ』が機能していて『中高年男性の居場所や自尊心(他者の関心・敬意)』が家父長制や女性・妻の持ち上げ、企業コミュニティ等で担保されていた。現代は経済・仕事・男と愛情・承認の結合は弱まった。

豊かになったから他人に意地悪になって攻撃するという因果関係はなく、ただネット社会になって『個人の主張・意見を不特定多数に発信できる場』が増えただけだろう。全体の約1%しか炎上に参加しない事もその裏付けだが、現代は『意地悪化』よりどちらかというと『メリット・興味のない他者への無関心化』が進んでいる。

続きを読む 現代の日本は意地悪化しているのか?『高所得の満足していないオジサン』による炎上:貨幣経済と評価経済

“ひきこもり・無職”は個人の問題であると同時に、スケープゴート化されやすい現代日本の不適応問題(社会の喪失・労働価値の低下)でもある。

ひきこもり・無職(ニート)の問題は非常に扱いが難しく、『精神疾患・発達障害・不適応・意志欠如・怠けの個人の問題』『甘やかし・過保護・過干渉・児童虐待・いじめなどの家族や学校の問題』に還元する人もいれば、『労働市場(即戦力としての経験やスキル)・履歴やキャリア・人材評価・経済構造(企業の対応や景気)の社会や企業の問題』に還元する人もいる。

実際にひきこもっている人の中には、統合失調症・重症うつ病・適応障害などの明らかな精神疾患の症状を呈している人もいれば、精神的に落ち込み気味で意欲や覇気はないが精神病理のレベルにまでは至ってない人もいれば、それなりに健康な精神状態ではあるがなかなか社会に出て働く意志や気力が起きない人もいれば、それなりにコミュニケーション力があって遊び・娯楽目的の外出ならできるという人(ひきこもりというより自発的失業の持続に近い人)もいるだろう。

ひきこもりやニートの中には、明らかに知的能力・職業能力・対話力が低いために社会に出ていけない人たちもいるが、高学歴者・潜在的能力(コミュニケーション力)の高い人も含まれている。そういった能力が低いわけではないひきこもりの人たちの多くは『自分の持つ知識・技術・経験』などを金銭(収入)・職業に変える方法・手段がわからず(捨てられないこだわり・プライドなどから)適当な職種の労働者になりきることもできずにくすぶっていることが多い。

ひきこもり・無職者の問題の難しさは、『個人主義・自己責任・市場原理の先鋭化』と『経済格差・雇用格差の拡大(一般的な労働条件・所得水準の悪化)』によって強まり、特に消費文明が発達して労働者としての主体性が揺らぎやすい先進国ではその数も増加しやすくなる。

端的には『ひきこもった後の社会復帰・再就職の難しさ』に加えて『社会参加してもどうせ最下層(低待遇)でやりがい・昇進昇給のない立場に置かれるという諦め』が加わりやすいが、現状はずっと真面目に働いてきた人でさえも非正規雇用や低賃金の待遇、解雇などの冷遇を受けることが多く、『ただ何でもいいから働くことによって満たされる欲求・自尊心』が過去に比べてかなり低くなってしまっている(それどころか働いてもなお貧困で前向きな将来の展望もない人が増えている)のである。

成熟から衰退へと向かう先進国の消費文明社会では、『働くことの技能的・心理的なハードル』が上がりやすいが、様々な知識・技能を身に付けて働いたとしても『好きなジャンルや職種の仕事(内発的モチベーションを高めて仕事そのものを楽しめる仕事)』にありつける可能性は小さくなっており、『ただ働くだけで満たされる欲求・自尊心(極論すればただ働いているだけの状態は、ただ働いていない人よりも社会的・経済的に有益であるという視点でしか評価されづらいのでひきこもりはバッシングされやすい)』もかなり小さくなっている。

続きを読む “ひきこもり・無職”は個人の問題であると同時に、スケープゴート化されやすい現代日本の不適応問題(社会の喪失・労働価値の低下)でもある。

認知症・要介護者の同居家族に対する家族の監督責任・賠償責任はどこまで認められるべきか:認知症の在宅介護の限界

愛知県で認知症の91歳男性が電車にはねられた死亡事故で『家族の賠償責任』は認められないとする妥当な最高裁判決がでた。注意すべきは『認知症者の事件事故に対する家族の賠償責任を無条件に免除するわけではない』ということ。仮に介護者の年齢が若く十分に監護できる生活実態があれば事故の賠償責任が生じる恐れがある。

岡部喜代子裁判長は、認知症の人や精神障害がある人の家族などが負う監督義務について『同居しているかどうかや介護の実態、それに財産の管理など日常的な関わりがどの程度かなど総合的に考慮すべき』という判断を示したが、認知症者の面倒を見れないと判断した家族の『同居・介護の回避』を促進する恐れもある。

続きを読む 認知症・要介護者の同居家族に対する家族の監督責任・賠償責任はどこまで認められるべきか:認知症の在宅介護の限界

現代における体罰の問題点と体罰による教育効果の限界

体罰の目的は『悪事を改善する指導』というより『上下関係の刷り込み』に近く、暴力・立場で威圧する怖い上位者がいるから大人しく従うという効果はあっても、物事の是非善悪を学ぶ役には殆ど立たない。

<桜宮高自殺>根強く残る「力の指導」 体罰防止策が進むも

体罰の本質は何かと考えれば、『自分の頭で考えないようにさせること・上位者の命令は絶対だという条件反射を形成すること』であり、暴力で相手が萎縮したり服従したりする体罰は『自由意思を奪うことによる表面的な問題解決』にはつながるので、教育の即効性がある(殴った相手が良くなる)と感じる人はいるかもしれない。

ただし物事(行為)の善悪の根拠や改善を自分の頭で考えさせないまま、体罰のみの指導に頼ると、『属人的な道徳観(あの先生先輩が言う事は全て正しい)』に陥りやすいので、『上位者の目の届かない所で悪事をする』や『殴られた自分の屈辱・怒りを下位者に向ける』等の陰日向・いじめやしごき・体罰の伝統化の問題がでる。

続きを読む 現代における体罰の問題点と体罰による教育効果の限界