千葉県船橋市で18歳少女が生き埋めにされて殺害された事件は、『家庭・学校・職場などに居場所がなく目的意識もないドロップアウト組の少年少女たち』によって引き起こされた事件であり、『子供の保護・教育に責任を負うべき親(家庭)の不在やネグレクト』とも関係しているように感じられる。
■千葉・少女監禁事件「事前に穴掘った」 容疑者供述
井出裕輝(20)と中野翔太(20)の両容疑者に監禁・暴行を依頼した(殺害許可を与えた)18歳少女は、被害者の18歳少女に『金銭トラブル』などで強い怨恨・殺意を抱いていたとされる。メディア報道では返済されていないとされる借金の金額は10~20万円というそれほど大きくない金額で、金を貸している側が殺害しなければならない理由にはならないだろう。
殺された18歳少女の具体的な家庭環境(家にいたくてもいられないような状況だったのか否か)は不明であるが、高校を中退して特別な資格・技能・就職先・貯金もないままに家出をした時点で、常識的には自活不可能な状況であるか風俗業(夜の仕事)・悪友に取り込まれやすかったり、犯罪に巻き込まれやすい状況に陥ったとも推測される。
ホスト通いで散財していたという話もあるが、友人知人の家に転がり込んだり借金をしてやり過ごす不安定な生活を続けているうちに、高校時代に知り合ったとされる加害者の18歳少女との間に深刻なトラブルを抱えたようだ。しかし、金銭トラブルにせよ異性トラブルにせよ、自分自身が殺されるような危険な状態にあるわけでもないのに、相手を殺さなければならない必要性や理由がない。
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掲示板で“女要素”は男・女共に好かれ“男要素”は男・女共に好かれにくいという話を、プリキュアやラブライブ、宝塚など『女も好む女だけの楽園』を例にし『中性的容姿の男の選好』に触れていた。男要素の価値は生物学的にも『外見・感覚の美観』より『仕事・戦闘の実利』に置かれたがそれが現代では縮小しがちなのかも。
確かに、男性が好む『男要素の多い漫画・物語』はあるが、そういった作品の多くには『仕事・戦闘・不良文化の対決とそこから得られる利益(階層的な上下関係・より困難な仕事の達成やより強い敵の撃破)』が関係していて、女キャラだけが登場する『女だけの楽園』と並ぶ『男だけの楽園』といった世界観は成立しづらい。
腐女子やドルオタなど一部の女性が好む『美形の男』も、『女要素の美観を持つ中性的存在』で、仕事・戦闘喧嘩・競争の勝敗や上下関係メインの『純粋な男要素』は余り人気がないように思う。ファッション雑誌が典型だが、女性は美形の女性を観賞するのが好きな人も多いが、男性には美形・着飾った男性を観賞する趣味がない。
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子供・結婚・仕事・政治など価値観対立が生じる雑談では『自分の生きてきた人生を肯定したい主張』を抑え『相手の生き方や選択に寄り添う発言』をするのがマナー。生き方の違う他者を否定し自己正当化を図っても仕方ない。
「子供いらない」は人に非ず?肩身の狭い女性も
人は本能だけに機械的に従う存在ではないからこそ、法律や倫理を構築し社会を形成する事に成功した特異な種。性欲も幻想なしには男が勃起しない『本能が壊れた動物』で、自己遺伝子保存はヒトにとって自然ではなく、『避妊・自我・価値観・将来予測・家族計画』などで本能が出産まで発展するかは意思的・選択的である。
『子供がいらないという人』が人ではないのではなく、各種の要因や配偶者(異性)との価値観のすり合わせで『子供がいるかいらないかの選択肢』を持てるということそのもの、『性行為と生殖行為を分離できること(避妊・中絶など選択肢を作り出したこと)』が自然と本能を懐疑可能な人間性(人為・理性)の本質だろう。
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現代は『ゼロリスクの安全・快適・清潔』を追求し、リスクある行動をして失敗すれば『自己責任・社会的コスト(迷惑・税金の無駄)』と批判されるが、本来人生も自然も不確実性との戯れの中に充実や美感がある。
「嫌い」「危ない」で消える学校の風景、過保護の代償
予定調和の決まりきったコースを進むだけの人生、自然の多様性や危険性から文明・科学のバリアで守られきった生活、新たな出会いや挑戦から遠ざけられて安全圏の中に留まる日常…それらは近代社会が理想としてきた『揺籃から墓場までの安全安心』の典型だが、人間が生きる意義・高揚を摩滅させてきたものでもある。
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義務教育で『善悪の分別の思考力』や『人倫の本質的な理解力』を培う教科を創設したいのであれば、『道徳(moral)』という権威的な教訓や全体への従属義務の意味合いを感じる科目名にするよりも、『倫理学(ethics)』という哲学的かつ主体的な思考プロセスを重視して、善悪と自由の本質を議論する感覚のある科目名にするほうが良いかもしれない。
道徳はリージョナル(個別的)なものではなくユニバーサル(普遍的)なものであるべきだが、日本で『道徳』というと、どうしても教育勅語のような『固定された儒教的な価値判断に基づく記憶と実践』になりやすいし、旧会津藩の『ならぬものはならぬのです』というような理由も根拠も分からないが、上位者から怒られるのでとにかく守るしかないという教条主義に陥りやすい。
道徳教育には賛成も反対も両方あるが、反対する人たちは、戦前の『修身(道徳科)』の君臣秩序・滅私奉公(自己犠牲)を中心軸にした権威主義的な道徳教育のトラウマが深いのだろう。権力や上位者にとって都合の良い個人の権利を押さえつける価値観を、一方的に教えられて同調圧力をかけられるのが道徳といった思い込みが、道徳教育への抵抗感を形成する。
戦後日本の道徳は『自他の生命を大切にすること・権力によっても個人の生命や自由を恣意的に支配することはできないこと』であるが、戦前日本の道徳は『生命に執着せずに全体(国体・天皇)のために潔く散れること・天皇を最高位とする国制上の上位者に絶対忠実であること』という正反対のものであった。
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アイボや赤ちゃんロボなど心理的ケアをするロボットの潜在需要は極めて高いが、現状の人工知能では『心のないロボットの前提』が強固であり、ロボットが会話の相手をしてくれても感情的満足度にすぐに限界がくる。
逆にそこまでAIが進歩すれば、人が必死に他者(恋人・家族・親友など)を求める動機づけが落ちて、楽な方向でロボットとの関係を求めるようになり(ヒト型ヒューマノイドの身体構造の完成度にもよるが)、人類は激減するだろう。
お世話して癒やし効果を=高齢者向け「赤ちゃんロボ」―中京大
ロボットや人工知能(AI)に『心』を持たせられるかの問いは、技術的な問題にも見えるが哲学的・存在論的な深い問いを孕んでいる。ロボットに心がないのは『自我・生存と複製の欲・主体性・自分の問題』がないからだが、ロボットは『人間のために作られた存在』であり『自分のために何かをする遺伝子』を持たない。
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