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現代日本におけるひきこもりの増加・高齢化の問題をどう捉えるか?:2

ひきこもりやニートでなくても、現代の日本人は最低限の仕事の選択基準をほとんどの人が持っているため、『肉体労働・販売や接客の雇用の量はあるが、求職者の希望に見合う仕事がない』といった状態が慢性的に続いている。

土木建設産業の労働需要は、東北の震災復興事業や東京五輪のインフラ整備、大手ショッピングモールやマンションの建設ラッシュもあって各地で不足が続いているが、土木建設業の肉体労働の経験がまったくない失業者が、そういった仕事に応募することはまずないし、仕事がないから試しにやってみるかという気分でいっても、肉体労働の負担(炎天下・寒冷化の気候)・独特の文化に適応できずにすぐにやめてしまう人が大半である。

現代日本におけるひきこもりの増加・高齢化の問題をどう捉えるか?:1

バブル崩壊期には、山一證券や北海道拓殖銀行を追い出されたそれなりの所得を得ていたサラリーマンが、他業種に転職して適応することができず自殺者まで出したが、『職業的アイデンティティの大きな方向転換や意識変革(自意識・自尊心の調整)』はそれまで働いている人たちであってもなかなか難しいところがあり、年齢を重ねれば重ねるほどに価値観や生き方が硬直して『今までとは違う自己像・働き方・給与水準』に適応できないリスクが高まっていく。

逆に、自意識や価値観、適応方略を短時間でスムーズに切り替えて、『今日は今日・明日は明日の気持ち(他人と自分を比較せずに自分にやれることから始めようとするこだわりのない意識)』で新しい職業生活やライフスタイルに楽しく適応していける人が、現代社会でもっとも前向きにサバイブしやすい性格や考え方を持っているとも言える。

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現代日本におけるひきこもりの増加・高齢化の問題をどう捉えるか?:1

ひきこもりやニート(自発的無業)というのは、かつて『若者の心理的問題・不適応問題』であったが、近年では1980年代以降にひきこもりになった人たちが社会復帰・就労の再チャレンジをする契機を得られないままにひきこもり続け、40~50代の中高年期のひきこもりになってしまったという『ひきこもりの高齢化』が指摘され始めている。

「中高年ひきこもり」が過半数を超えた 40代が最も深刻、期間10年以上も

ひきこもりが問題化してから30年近い歳月が流れ、日本経済はかつての成長力・財政力とセーフティネット的な安定雇用の性格を失い、ひきこもりやニートといった問題の捉えられ方も『社会復帰や教育訓練を支援されるべき問題(心理的問題をケアされるべき問題)』から『働かない人の人格性や家族が非難される問題(苦しくても働く人たちがあいつらはずるい甘えていると非難する問題)』へと変質してきた。

生活保護問題もそうだが、ひきこもり・ニート・無職などに対する批判の論調が、『一部の特殊な社会不適応の人たちに対する支援・ケア・対応の考え方』ではなく『自分もそうなるかもしれないがそうはなりたくない(頑張っている私とダメなあいつらとは違う存在だ)という同レベルでの貶め合い』に近づき、非難・否定の論調がより過激かつ酷烈なものとなっている。

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20代男のベビーシッターに預けた2歳児が死亡した事件

“子守り(子供を預かること)”を仕事内容にする個人のベビーシッターには、法規制や業務独占資格などはないが、通常は十分な信用度が担保されない相手や機関、場所に自分の子供を預けること自体が考えにくく、どうして若い男性が単独でやっていて施設的な拠点もないベビーシッターを無条件に信用したのかは不可思議である。

仮にそういった男性個人が請け負っているベビーシッターに預ける場合でも、最低限、どういった場所に子供が預けられるのかどんな人物が実際の面倒を見るのか、他の子供たちもきちんと世話をされているかなど、自分でその場所・部屋にまで実際に出向いてチェックすることくらいはすべきである。

住所が明確な保育所や幼稚園のような施設・組織としての拠点(基盤)がないのだから、『個人と個人の信頼関係以上のもの』がそこにはなく、であればこそ『実際に世話をしてくれる相手』には対面して話してみたり預ける場所を観察したりして、その人間性や信用度(責任感)、託児環境の質を推し量るべきだ。

『子供を受け取る人』と『子供の面倒を見る人』が別であるというのもおかしな話だが、預けられる場所とは別の駅で子供を預けてしまうというやり取りもリスクが高いし、そもそも『子供がどこにいるかも分からないような預け方』はいざという時に迅速な対応ができず、親としては不安なはずである。

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千葉県柏市の通り魔事件と不特定多数(誰でもいい相手)に危害を加えようとする犯罪類型

ニュース映像にあった現場の大量の血溜まりから犯行の悲惨さが伺われるが、カネ目当ての『強盗殺人』というよりは、精神状態の異常な興奮や攻撃性に基づく『無差別殺傷』に近いような印象を受ける。

31歳会社員の生命が失われる被害があったが、人通りの少ない深夜の住宅街の道路でなければ、より被害者数が拡大していた恐れもある。最初に声を掛けられた自転車の20代男性は、即座に逃げるという咄嗟の判断によって助かった(切りつけられて軽傷を負ってはいる)というが、その後の殺害状況から明確かつ強力な殺意の存在がうかがわれることから、加害者に言われるままについていけば不意の一撃で命を落としていた恐れもある。

加害者がいまだに捕まらず逃走を続けていることは、周辺住民にとっては非常な不安・脅威でもあるが、『公開されている外見・服装の特徴(サングラス・ニット帽・マスク・黒のダウン)』は、少しでも時間が経てば、全く犯人追跡の役には立たないものばかりである。

コンビニの防犯カメラに犯人の姿が映っていたとされるが、サングラスとマスクをしたままだと顔は分からない。それ以外の防犯カメラとの照合で逃走経路をつないでいったり、盗んだ車を乗り捨てた後の目撃証言がでるか、容疑者の周辺からの情報提供がないと逮捕まで漕ぎ着きにくいと思うが、新たな通り魔事件を犯す前の時点での検挙が至上命題ではある。

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『善人』の増えた現代の先進国と『弱者への同情』を嫌ったフリードリヒ・ニーチェ:現代の善人の争いを回避する優しさ・弱さをどう捉えるか?

昨日書いたドラマ『明日、ママがいない』の記事では、『他者の不幸・苦痛に対する想像力や同情(共感)』の弱さによって、新たないじめ・差別が誘発されるのではないかという危惧について触れた。

だが、コメント欄において、『自分よりも不幸な者を見ることによる安心感』『伝統的な日本の階級社会(身分の違い)の名残と意識』『キリスト教の博愛・弱者救済の倫理観』『人間社会の個人差や自意識に基づく差別・いじめの普遍性』について読み、ふとニーチェの同情否定の思想をイメージしたので書き留めておく。

F.ニーチェの実存主義哲学は、『反キリスト教(弱者貧者の道徳的地位の否定)・反社会福祉・自己肯定の超人思想』に象徴されるように、『ストレートな強さ・美しさ・豊かさ』を賛美する真の貴族主義を掲げた文学的・美学的ロマンスの思想である。

弱くて貧しいが故に正しい(強者・富者は道徳的価値は低い)という大衆の数の論理に裏打ちされたキリスト教道徳を反駁して、強くて美しくて豊かであるが故に正しい(それはあまりにも自明であるが故にそうではない者のルサンチマンを刺激する)という人間の本能・知覚・直観に裏打ちされた古代ギリシアの貴族主義に回帰するかのような『超人思想』を喧伝した。

私は強くて美しく豊かであると思える『超人(ツァラトゥストラ)』を目指し、自分の弱さ・不遇に押しつぶされるような『どうせ自分なんて・今とは違う人生があれば・誰かが助けてくれれば』という自己嫌悪や道徳の逃げ場を閉ざしたニーチェは、ナチズムとも接合した優生主義者(権力志向の反ヒューマニスト)として批判されることもある。

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学校・職場のいじめは、どうして根本的解決が難しいのか?:社会的動物としての本能に倫理・理性の火は灯せるか。

いじめと聞くと記事にあるような『学校環境におけるいじめ』がイメージされやすいが、実際には『大人同士の社会関係(仕事・社交)』においても直接の暴力を振るわないいじめは無数にあり、各種のハラスメント(パワハラ・モラハラ・セクハラ・アカハラ・マタハラ等)が社会問題になって久しい。

虫を食べさせるいじめ、調査で発覚 長崎の小6自殺

有史以来どころか類人猿の段階から、ホモ属の構成する社会にはおそらく集団内における弱者(ネガティブな特徴が目立つ異質な他者)を差別して攻撃・排除する『いじめ』はあったと想定されるが、『いじめの根本原因』は何かというと以下の4つに絞り込まれる。このいじめの根本原因は、社会的差別(排除力学)の根本要因でもある。

1.人間が社会的動物であり、特定の集団組織に所属する状況が多く、集団内でのポジショニング(優劣・居心地の良さ)を巡る『明示的・暗黙的な競争』があること。

2.人間の個人の外見・能力・意志(動機づけ)に多様性があり、『自己と他者との差異』によって自己価値の確認(あいつよりは俺・私のほうがマシだという自己保証)をする人が多いこと。

3.社会を共同体として維持するための『価値観の均質化・集団内の秩序形成・言動の同調圧力』が働き、共同体に所属しようとする個人である限り、その種の集団力学の影響(個人の倫理・意志を押さえつけてくる力学)から完全には抜け出せないこと。

4.家庭環境・親子関係・友人関係・学校教育を通して、『自尊心の傷つき・存在価値の不安定化』に脅かされるトラウマを負うリスクがあり、そのトラウマを解消するための『スケープゴート』を求める個人が絶対にゼロにはならないこと。

学校のいじめを減少させるための決定的な方法であればむしろ理屈としては簡単である。学校やクラスを『固定メンバーで構成され続ける共同体的な学校環境(いわゆるスクールカーストの秩序形成を促す環境)』ではないようにすればいいだけである。

小中学校のメンバー固定のクラス制を廃止して『学科ごとの講義制』にしたり、どこの学区の学校にも飛び入りできるようにしたり、校舎に通わなくて良いネット配信教育との併用を認めればおそらくいじめは相当減るだろう。毎日、同じメンバーで顔を合わせて学校に通えば、『親しい友人間のグループ(派閥)』もできるが『親しくない知人との区別』も生まれ、『気に入らない奴・合わないグループに対する認識や対立』も生まれるリスクがある。

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