倫理観が高度化しネットで内部告発が拡散する現代は、動物使用のビジネスはペットショップや動物園でも一定のリスクがある。動物を『愛護・野生・絶滅危惧』と『食用・家畜・使役』に分類するのも人間側の倫理だが。
劣悪な環境で次々死んでいくフクロウ…フクロウカフェの元スタッフが内部告発
そもそも論では動物界には倫理(共感・生命尊重による手加減)はなく、動物同士の捕食や縄張り争い、遊び(弱い動物の虐待)の有形力行使は『弱肉強食・食物連鎖の自然の摂理』でしかない。動物の権利は自然の淘汰圧を抑え生態系の頂点に立った余力ある人間の『倫理的な自己尊厳・自然管理主義』の発露でもあるだろう。
『種の保存』も利己的遺伝子の個体保存で、『種』というグループ全体で意志的なDNA保存の行動があるわけではない。動物は生命維持や自己複製するがそれは意識的な判断や選択ではなく、存在の持続が『善・正』とする価値観すら人間的な感情と観察に依拠する。自然は生存・生殖の成否の結果をただ静かに積み重ねる。
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ハラスメントには『他者の過度な侵入感・支配性』がある。男のセクハラには、拒絶を恐れて冗談の防衛線を張った『間接の性的関心・誘惑・評価』が含まれ、それが性的嫌がらせや侵入感になりやすい。
「セクハラ発言が許容される社会へのモヤモヤ」詩人・文月悠光が語る、女性の生きづらさとは
セクハラは『見る性・見られる性』『社会経済的な力関係・ポジション』『性別役割規範のジェンダー』の男女の非対称性によって生み出されやすい。近年は男性も『外見・性的魅力の目線や評価』に晒され愚痴や不満は増えている。男でも女でも『他者から不躾に品定めされるような目線・言葉』を受ける事は一般に不快である。
しかし厳密にはセクハラにおいて『男女の平等なポジションや被害感』は成り立ちにくい。『男性・女性のセクシャリティ』の差異は、男性側の性的欲望・視覚刺激(女性の身体性への幻想)の強さによって規定され、『女性身体=性的なオブジェクト』のように男性身体をまなざしてあれこれ品評する女性はどうしても少ない。
確かに、女性にも男の身体性について『胸・腕・尻の筋肉が好き,全身のフィギュアや顔立ち(目・鼻・口)が好き,性の好きなムードや感覚』はあるかもしれないが、男性のような女性身体(胸・口腔・性器等)に対する執拗な視覚・言葉のフェチシズムには到底及ばず、女性でさえ女性身体にエロスを感じる人が多いといわれる。
セクハラの根源には、遺伝・形態・生理も含んだ『男と女の差異』が横たわるが、社会的・表面的には『理性・知識・配慮』での抑制が可能である。だが性的にまなざして欲望して比較する内面自体に、一定の侵入性・暴力性が潜在し、それを表現・伝達・干渉した時に、受け取る相手によってはセクハラや性暴力になる。
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ノーベル文学賞は村上春樹のような周囲が受賞を待望する作家(売れっ子の作家)は選ばれにくく、『想定外・マイナー』に目を向けやすい。ボブ・ディランは狙いに狙った想定外だろう。
ボブ・ディランがノーベル賞にシラけている理由、周囲の熱狂のバカらしさ
ボブ・ディラン選考は、ノーベル文学賞の対象が『小説・評論・随筆を書く作家』に限定されないという新ジャンルの先例になる。ボブ・ディランだけは特別で以後は歌手の選出はないということも有り得るが、『歌詞に文学性・哲学性・政治性のあるシンガーソングライター』まで含めると候補者は膨大になり次は予想困難になる。
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■長女の首絞めて殺害した疑い 父「暴力ひどかった」
(朝日新聞デジタル – 04月12日 13:20)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3943024
人間の究極的な幸福と不幸の基準は『この世に生まれてきて良かった・生きていることがありがたい・社会や他者と協力して生きていきたい』と思えるか否かに尽きると言ってもよい。
現代の未婚化にせよ少子化にせよ、その根本にあるのは『生まれてきて良かった(お父さんお母さん、産んでくれて育ててくれてありがとう。この両親の元に生まれてきて良かった)』と素直に思える楽観的な人が減ってきたということであり、『人生の感動や喜びを自分の子にも伝えたい』と思えない人が増えたということだろう。
生物学的な天敵を失ったホモ・サピエンス・サピエンス(知恵あるヒト)が絶滅するリスクがあるとしたら、全面核戦争・人口爆発の資源欠乏でなければ、科学技術主義・遺伝子操作の進歩の行き過ぎの副作用か、生きる意味を本質的に考える自意識・無常観のこじらせかのいずれかだろう。
『難しく考えすぎ・考えずに感じればいい・本能や勢いでいけばいい・ありのままに生きれば良い・人間も動物の一種で生殖は自然の摂理である』と言える人は、近代的自我が『禁断の知恵の実の毒(賢しらな人生の意味の先読みと諦観)』に冒されきっていないそれなりに幸せな人であり、動物的な生命力と共同体の再生産の意志を失っていない。
気づけばこの世に投げ出された実存的な主体である私たちにとって、第一に直面する不条理が『誕生』であるとも言えるが、何びとも誕生に対する拒否権や生まれ落ちる環境・遺伝子についての選択権を持ってはおらず、実存的な存在形式そのものが本人の同意とは関係のない不条理と所与の現実を前提(スタート地点)にしている。
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2045年のシンギュラリティー(特異点)は科学技術のユートピアをもたらすか、デジタル失業の苦難をもたらすか。知的にはエキサイティングだが雇用・仕事の面の不安も大きく、世の中の仕組みや常識の劇的な変化についていけない個人は、相当な負担・苦労を強いられることにもなりかねない。
人工知能の進歩と職業(ホワイトカラー)の構造的変化
人工知能は『感情・直感』を持っていないので、人間の苦悩や絶望、ストレスに寄り添って、温情的な処遇をしてくれる保障がないというのが大きな問題だろう。
基本的には、管理者・所有者から与えられたミッションを効率的かつ正確にこなす役割で、高度な人工知能やロボットを沢山所有できる資本家がより豊かに強くなる時代が当面続くことになるのだろうか。
国家や人類をシステマティックに強制的に管理できる(その代わりに私利私益・不正行為のモチベーションもない)ビッグブラザーのような人工知能が出現すれば、人類の生き方や価値観は変わるだろうが、それはそれで新たな人類の家畜化に他ならないとも言える。召使いのようなロボットが、人を労働から解放して自由にしてくれる事を期待しても、期待外れに終わりそうだ。
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昭和生まれの日本人にとっては、『ハロウィン』というのはそこまで馴染みのある行事でもなく、9~10月の時期にかぼちゃをデザインしたお菓子の詰め合わせ・雑貨の小物などが売っていたくらいの記憶しかないのではないかと思う。
現在の年齢で、20代半ばより下の世代にとってはハロウィンは、一年の中であって当たり前のポピュラーな行事として認識されているというが、『ハロウィンだからこういった祝い方(イベント)をするという定型的な過ごし方』があるわけではなく、大人も一緒にコスプレをして仮装行列を組むイベントへの参加は、日本全体ではごく一部(主に東京都心部)の人たちがやっているに過ぎないように思う。
大半の人はハロウィンらしいパッケージのアイテム・お菓子、かぼちゃを使った料理・スイーツなどをちょっと楽しむくらいのものではないかと思うが、経済効果が約1280億円でほぼバレンタインと同じくらいの規模だという。
食品・菓子・コスプレ雑貨・パーティーグッズなど含めた経済規模の大きさを考えると、『10月にも何か大きな商機となるイベントが欲しいというビジネス上の要請』があって、2000年代後半くらいから大手チェーン店の商品開発(季節商品)の協力も取り付けながら、電通・博報堂などがマーケティングを仕掛けていった結果なのだろう。
しかし、日本経済の大きさを考えれば約1300億円はそれほど巨大なマーケットではなく、『各世帯がいつもよりちょっと多めに季節物商品でお金を使うハロウィンの過ごし方』が定着していったということかもしれない。渋谷でやっているような数万人以上が押し寄せるような仮装行列パーティーというのは人口が多い都心の局所的な現象であり、地方の人口100万程度の政令指定都市レベルでもそんなに仮装行列が至るところで行われている風景の印象は薄い。
続きを読む 近年のハロウィンブーム:コスプレの仮装行列まで参加する人の比率は低い。 →
政治経済・社会・思想の少し固めの考察から、日常の気楽な話題まで!mixiの日記・つぶやきのログも兼ねてます。