現代では統計的な凶悪犯罪や自動車事故の発生件数が減っても、『体感治安(危険実感)』は高いレベルで推移しており、相対的に安定した仕事をして豊かな暮らしをしている人でさえも『将来不安(今上手くいっていてもどこかで大きな困難に直面するのではないかとの不安)』が尽きること無く高まっているような状況である。
日本列島には約1億3千万人もの日本人が生活しているが、人口が少なかった時代よりも他者との直接的な助け合いや心配・配慮が行われにくくなり、大多数の人は孤独感・疎外感を感じて他者を信じなくなり、家族をはじめとする近親者と国家の提供する福祉制度、企業が与えてくれる給与・保障以外には『頼るべきもの(生きる術+心の支え)』を持ちづらくなっている。
大半の人は、企業からの安定した雇用(キャリア)や給与を失って、国家・行政の提供する社会福祉・公的年金のセーフティネットからこぼれ落ちればアウトであり、プライベートな人的ネットワークやコミュニティの相互扶助によって『国家・経済以外のセーフティネット』を自前で構築しているという人は極めて少ないし、都市部では特異な宗教団体でもない限り、そういったコミュニティを結成することは困難だ。
その意味において、一部の村落共同体のような地域を除いて、日本の都市部において『社会(中間集団の市民社会・互助の連携)』は死に瀕してしまったといえるが、バラバラの個人が自己責任のもとに金銭を稼いで保障を手に入れ、得たモノに対する『排他的な独占』を主張して守りに入るというライフスタイルにとっては、基本的に他者を受け容れる余地が極めて乏しい。
近代社会は、村落単位の農業のような共同的労働ではなく、各個人の学歴・職歴・資格・技能などに応じて個別の所得や処遇が決定される働き方であるため、同じような場で働いているからといって農業のような『共同的労働の連帯感・仲間意識』といったものは生じにくく、(自分の力で勝ち取ったと感じる)報酬に対する独占意識は極めて強い。
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トイレに行った後は習慣的に手洗いをするようにはしているが、トイレ設備が極端に汚くて古い場所などでは手洗いしないこともあるし、『屋外での手洗い』は中途半端になりがちではある。
トイレのあと手を洗わない男性約7割 背景を哲学博士が分析
手に付着した細菌・ウイルス数の減少という面では、『間違った中途半端な手洗い』なら逆にしないほうがいいとも指摘される。
以下のような間違った手洗いは自分もすることがあるし、他人がしているのも見かけるものだが、急いでいたり面倒くさく感じると、ハンドソープをつけて丁寧に揉み洗いをして完全に水気がなくなるまで手を乾かす(拭き取る)という動作はなかなかできていないものだ。
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更に、モノはあっても売り切れない。これらは日本が直面している『豊かさの中の貧困・近未来の人材不足(人口減少)・価格競争(ダンピング)と平均所得の下落(中流崩壊)・仕事と消費の選好(選り好み)の強さ』を予見する現象である。
行政は収税と公的事業に『一切の無駄がないという建前・予算を減額する余地がないという組織の論理』によって、予算を使い切ることに対する半ば強迫的な義務感を持つことが常であり、予算が余って積み上がっていくことはなかなかなく何らかの公的事業・インフラ整備・備品購入などで調整される。
使い切れぬ復興予算 事業進まず基金化3兆円 被災3県
だが、岩手、宮城、福島の3県と各市町村の『震災復興事業』では市町村の復興ビジョンやそのための具体的な工程表・仕事の割り当ては描けていても、その実務を担って必要な予算を使う職員と労働者の絶対数が不足しているため、復興基金のお金だけが積み上がっていく。
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を完全に無くすのはなかなか難しいかもしれない。
『人からどう思われるか(他人の目線)』を気にせずに、自分の主体性や思想信条を確立して臆せずに率直な意見・感情の表現をしながら、自己と他者の異なる意見をぶつけ合って統合・納得するという『近代的自我(脱亜入欧の自律的な人間像)』は長く日本人の憧れであった。
恋愛関係をダメにしがちな3つの悪いクセ「問題解決」「悪者探し」
だが、実際には他者(自分を取り巻く人)のまなざしや共同体の同調圧力から自由になれた『近代的自我を発現できた日本人』はかなり少なかったのではないかと思うし、日本の地域社会・企業社会の中枢に近づけば近づくほどそういった近代的自我は抑圧されやすい。
対人恐怖症(社交不安障害)がかつて日本に特有な文化結合症候群と呼ばれたように、日本人は『世間体・体裁といった他者の評価のまなざし』を強く意識したムラ社会的な調和の人生設計や無難な自己呈示を是とする社会を古代から作り上げてきたということもある。
恋愛のノウハウの話から少し逸れるが、『視線恐怖(まなざしてくる他者から自分をなにか評価される恐怖)』も平安王朝以前の貴族社会からあったと言われたりもするが、身分が高貴な人間は下位の人間の目線(値踏みのまなざし)を直接浴びなくて済むように御簾・衝立(みす・ついたて)などを置いて遮った。
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ドラマ『明日、ママがいない』には、母親から赤ちゃんポストに遺棄された子供や親から虐待を受けたり養育を放棄されたりした子供たちが登場する。そういった親に愛してもらえない子供たちの『不幸な境遇・弱りきった気持ち』に、更に追い討ちをかける過酷ないじめ・差別・職員による暴言が過激に表現される。
この親のいない子供を更に虐待したり差別したりする人間がいるという表現に対して、関係者から『児童擁護施設で生活している(生活していた過去のある)子供たちの心が傷ついたり、ドラマを真似したいじめを誘発する恐れがある』というクレームが寄せられ一部で物議を醸しているという。
野島伸司の脚本には『101回目のプロポーズ』『ひとつ屋根の下』のような王道のトレンディドラマ(恋愛・家族もの)もあるのだが、教師と生徒の禁断の愛をテーマとした1993年の『高校教師』以降の作品ではかなり色彩が異なってきた。
『家なき子』『聖者の行進』を代表として、『暴力と虐待・貧困(無能)と差別・いじめと自殺・障害者差別・倫理と建前の崩壊(偽善性の暴露)』などの豊かな明るい現代社会の表層から隠蔽(排除)されている暗い問題を扱うことが増えた。
そういった暗くて貧しくて誰も守ってくれない悲惨な境遇、理性も倫理も救いもない世界に閉じ込められて生きている人が、この日本のどこかにも確かにいるのだという現実を知らしめるような重たい作品を野島は好んで書くが、『悲惨さ・不幸さの強調(フィクションではあるが一部ではリアルとも接合する表現)』がどぎついので、ドラマのいじめられる者の設定との共通性が僅かでもあれば気分が悪くなるような人がいても不思議ではない。
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宗教団体が一般市民を対象とする無差別テロを仕掛けた『地下鉄サリン事件』が起こったのは1995年3月、阪神淡路大震災が発生してから僅か2ヶ月後の大惨事だった。世紀末が近づきバブル崩壊後の不況に喘ぐ日本の世相を更に陰鬱なものとしたが、それだけではなく当時のマスメディアはお祭り騒ぎのようにオウム真理教の長時間の特集番組を組み続け、麻原彰晃逮捕の当日までメディアの多くの時間がオウム関連にジャックされているような異常な状況であった。
当時の僕は高校生だったが、連日のようにワイドショーや特番にオウム真理教の幹部が出演しており、上祐史浩広報部長や青山吉伸弁護士が『尊師(麻原)の無実』と『教団の安全性』を饒舌なまくしたてるような口調で訴えかけ続け、オウム糾弾の報道に対しては名誉毀損罪をはじめとする法的な措置を取ることを辞さない姿勢を示していた。
教団側がむしろ国家権力や米軍から弾圧されているという被害妄想を中心にした弁明だけではなく、オウム真理教の教義と目的、不気味な修行方法と霊感商法、麻原を頂点に置くヒエラルキー・幹部のホーリーネームや高学歴などがあまりに詳しく報道され過ぎ、オウム批判なのかオウム宣伝なのか分からなくなる有様であった。
最初はオウム真理教の名前くらいしか知らなかった人までが、教団の主要な幹部の顔・名前が識別できるようになったり、教団内の特殊な教義、女を使った勧誘法や麻原の煩悩まみれの生活ぶり(最終解脱者は何をやっても精神が汚れず欲望が逆に清めになるらしいがw)を知るようになったりした。上祐史浩にファンがついたりグッズが販売されたりなどの、事件・騒動に便乗した悪ふざけの動きも出たりしたが、こういった動きは海外の凶悪犯罪者や日本で英国人女性を殺した市橋達也の事件でも起こったりはした。
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