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森博嗣の『すべてがFになる』などS&Mシリーズの印象:西之園萌絵・真賀田四季など理系インテリ美人のキャラ設定

森博嗣の『すべてがFになる』からのS&MシリーズとVシリーズは全て読んだ。その後の作品群は、ライトなキャラ小説に傾いた感じもあるが、漫画化や映像化のしやすさにも配慮した本を書いていて、『売れる本(時代性・ニーズに合わせた本)』を書けるプロ作家だと思う。

西之園萌絵と犀川創平が活躍するS&Mシリーズは、浮世離れしたお嬢様+学者のコンビで知的な謎解きに合っていて、二人のちょっと斜めに構えた『人生観・世界観の論議』が好きだった記憶がある。

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『φは壊れたね』からのギリシア文字を掲げるGシリーズも西之園萌絵・犀川創平が登場するが、主人公の女子大生が変更されたようだ。森博嗣自身が大学教員であることもあって、大学・院を舞台に『俗世間の価値観』の弱い世界観を作り、金持ちのお嬢様で『経済的制約』を無くしているが、キャンパスライフと斜に構えた思考遊戯の融合の面白さがあった。

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読書と恋愛:“教養・語彙・話題(ジャンル)”による相性もあるが、読書は基本的に孤独な営み

『読書をする人』と『読書をしない人』のどちらが異性に好かれるかは、相手が読書をする人か否かにかなり左右されるし、『読書で得た知識・話題・物語を相手に興味を持たせて聴かせる会話力』にも影響される。

世の中の人の過半は『本を習慣的には読まない人・細かな知識を欲さない人(蘊蓄・教養を深めない人)』であるから、『自分が読んでいるジャンル・本』について一方的に語っても、その内容や理論、知識について真剣に聴いてもらえる可能性は低い。

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何らかのジャンルや本について読み込んでいるからといって、それが恋愛上の魅力になるとは考えにくいし、『本・知識が嫌いな女性(話題を深く掘り下げるような会話を好まない女性)』も少なからずいるので、相手によるしケースバイケースだろう。

単純に外見・性格が好みの相手や収入が良い相手とどこかに楽しく遊びに出かけるだけで満足、ごちゃごちゃ小難しい話をするより買い物・レジャー・グルメのほうが良い、知識・教養などより結果としていくら稼ぐかの実利と生活のほうが大切だという女性も少なくないし(むしろ一般的な恋愛では多数派かもしれないし)、男女間における『話題・人間性の深み』というのは求められているようで求められていないといった曖昧かつ微妙なものである。

話題・人間性の深みや知的根拠へのこだわりを見せすぎることによって、『面倒臭い人間』として敬遠されることも多々ある。世渡りや男女関係では、少しシンプルで感情的でバカっぽく見せるくらいがちょうどいいし、『思考的・言語的』であるよりは『行動的・共感的』であるほうが『実利が多い・生活に役立つ』という意味で魅力的でもある。

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百田尚樹『殉愛』を巡るさまざまな新証言と晩年に現れやすい妻・家族との絆の問題

百田尚樹は小説の作品には面白いものもあるが、安倍政権への思想的な異常接近やネット上での口汚い罵倒・反論などが明るみに出て、『人物としての癖・乱暴さ』の方が話題になりやすくなった感じがある……良くも悪くもキャラクターが強すぎるのかも。

百田尚樹氏の『殉愛』に続々新証言 たかじん氏が前妻に頼んだ「看取り」

『殉愛』はやしきたかじんの晩年を軸にしたドキュメンタリー(ノンフィクション)と銘打たれているが、『取材する範囲・取材内容の質』に甘さが多く、『百田尚樹が書きたい(売れる)と思った物語の設定・枠組み』に半ば強引にやしきたかじんとその周辺の関係者を配置していった作品のように思える。

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勉強・読書の本質的な意味とは何なのか?:知覚的な現象世界と言語的な普遍世界を生きる人の希望と絶望

アメリカでは成人の約8割が、一年間に一冊も本(電子ブック含む)を読まないというニュースを目にしたが、日本人でも実際にライトな雑誌以外の本・電子ブックを買って読む成人の層というのは、娯楽的な小説を含めてもなお多数派ではない。

一部の読書家が偏って購入していて、『長文(漢字の多い文章)を読むだけで頭が痛くなる・何が面白くて本なんか読むのか分からない』という人もかなりの割合でいる(ネットでも数千文字程度の文章が長すぎて読めない、文意が掴めなくなるという人は多い)。

勉強・読書は人を幸福なリア充にするか?:近代社会と勉強の効用と人生の面白さ

子供時代から読書習慣がなかったことも推測されるが、恐らく生涯を通して教養趣味・知的娯楽としての本(電子ブック)に触れることがないままということになる。だが、実生活や経済面ではそれは致命的な知識・体験の欠落では全くない、読まなくても生きたり働いたり関係を持ったりする分には不都合がないからである。

『時間がない(他に優先すべき仕事・家庭の用事などがある)』というのが本を読まない第一の理由だが、大半の人にとっては『読書よりも面白い活動や遊びがある』からである。しかし、総体的にはそれでも人生や恋愛、家庭運営などにおける致命的痛手を受けるわけではないし、逆にそれなりに読書をしている人よりも『内面の鬱屈・悲観・虚無感』が少なかったり、『実際的な生活面の行動』にはむしろ身軽に動けて意欲的・適応的だったりもする。

それなりに勉強をしてきた人(専門職やエリート職に就くなど職業上のベネフィットもある程度ある人)や読書をしてきた人の中にも、『自分はそれほど幸せではない・世の中はそんなに面白くない・他人のほうが人生を上手くやっている』という不遇をかこっている人は少なからずいる。

こういった人は、『シンプルな人生設計・分かりやすい欲求のストレートな充足(頭の中であれこれ考えすぎない単純な行動原理)』を隣の青い芝生のように見ていたりするが、『複雑な思考・知識の体系に対する執着』と『現実の快的な体験・関係性・金銭における対価』との間の葛藤によって容易には自分の生き方、考え方を変えることはできないのだ。

人間の幸福の典型的な類型として、難しいことをあれこれ考えないシンプルさ、知識・情報に振り回されない単純さを上げる人は少なくないが、それが自分にはできないといって嘆く人(ある種の自己の特別視と情報・知識の過剰に悩む人)もまた少なくないのである。

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勉強・読書は人を幸福なリア充にするか?:近代社会と勉強の効用と人生の楽しみ方(捉え方)

学校教育では勉強ができるかできないかが一つの重要な自己価値や他者評価の基準になり、勉強ができてテストで高い点数が取れることが、『将来の学歴や職業選択・キャリアパスにおけるベネフィット』として肯定的に受け取られることが多いが、勉強そのものが“人生の主観的な幸福感”とは結びつかないという意見も根強くある。

なぜ勉強しなくてはいけないのか、なぜ本を読んだほうがいいのかという言い古された問いはあるが、結論から言えば『勉強しなくても本を読まなくても生きる上では特段の不都合は生じないことが多い。勉強するにしても受験・就職・資格・職業・研究職などに関連した実学的な勉強だけのほうが(余計な世界観・思想・世界解釈・政治などに触れないほうが)実生活の上では役立つ』ということになる。

それでもなお、生涯にわたって自発的に続けていきたいと思う勉強や読書があるとしたらそれはある種の人間にとって如何なる意味を持つのか、という辺りをあれこれ考えてみたいと思う。

近年ではネットを中心にして『リア充』という概念が生み出されたが、10~20代の学生時代にはリア充であるかどうかによって人生の主観的な幸福感や楽しさが左右されるという人も多いようである。

隣の芝生は青いとか承認欲求の自己顕示というものにも近いが、リア充というのは『自分自身』について語られることよりも、『自分以外の恵まれているように見える他者』について語られる時に頻出するキーワードであり、『私こそがリア充である』という自己言及ができる人は滅多にいない。

リア充であるかどうかと勉強ができるか成績が良いかというのは一般的には殆ど相関しないと考えられている。むしろ一人でコツコツ勉強をしたり本を読んだりして『内面・知識・将来性の充実』を図っているよりも、余り小難しい理屈や思考・人生のプロセスなどは考えずに、仲間や異性と集まってワイワイ騒いだり、恋愛や性、生活を楽しんだりする人(端的には異性や仲間に好かれやすくて外向的にアクティブである人)がリア充に見えるというのが世間一般の感覚である。

勉強というのは畢竟『一人で行う内省的かつロジカルな営み(どちらかというと他者から離れて自分の内的世界の表象・演算に集中する営み)』であるから、試験勉強をみんなで集まってやることはあっても(それでも勉強が得意な人ほど他人と一緒に勉強する効果がないと感じるだろうが)、勉強をしている人を『楽しそうにしている羨ましいリア充』と認識する人は一般的には余りいない。

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日本社会の非冒険的カルチャーと官僚主義・長期雇用(生涯安泰を理想とする予定調和の静態的システム)

本多勝一(ほんだかついち)の『日本人の冒険と「創造的な登山」』は1970年代に書かれたものだが、日本社会あるいはマジョリティの日本人がなぜ『冒険的・探検的な試み』を嫌って恐れるのかを冒頭で検証していて興味深い。

そして、この死ぬかもしれない人間の身体的限界(エクスペディション)に迫るような冒険・探検を『無謀・迷惑かつ無意味なチャレンジ』として嫌う基本的な性向は、現代の日本にまで連続していると見て概ね間違いはない。

今でも『山の遭難・海の事故』などに対して様々な角度から罵倒や嘲笑が投げかけられるのは常であるし、『初めから危険な場所に行かなければいいのに・おとなしく普通に暮らしていればいいのに』という考え方は一般的なものでもある。

最初に取り上げられるのは、1962年に単独で小型ヨットで太平洋横断(アメリカ渡航)を果たした堀江謙一青年だが、日本のメディアや文化人の論評では堀江の扱いは『太平洋横断の超人的偉業を成し遂げた』ではなく『両国政府の許可を得ていない密入国で犯罪ではないか(冒険を評価するよりも違法行為や無謀な挑戦を戒めるべき・アメリカからも非難されて逮捕されるのではないか)』というものであった。

だが、アメリカは不法入国した堀江謙一を逮捕するどころか、勝海舟の咸臨丸によるアメリカ来航以来の日本人による太平洋横断の快挙として賞賛、堀江を『名誉市民』として認定して好意的なインタビューが行われた。アメリカのマスメディアや行政の反応を見た日本の政府やマスメディアの対応は180度転換して、『人力による太平洋横断の功績』を評価するようになったが、日本社会だけでは堀江謙一が評価されることはなかったと思われる。

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